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Astro Boy (Mighty Atom)

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「どんなに大人になっても ぼくらはアトムの子供さ
 どんなに大きくなっても 心は夢見る子供さ
 いつでも百万馬力で みるみる力がみなぎる
 だからね さみしくないんだ ぼくらはアトムの子供さ」

 山下達郎の『アトムの子』は、歌詞だけ読んでいると、純粋さをいつまでも持っていたいと願う希望に満ちた歌のように感じる。
 たとえどんなに遠く離れようがいつだって夢見たヒーローが勇気をくれるし、いくつ歳を取ろうが、自分たちはいつまでも正義のヒーローの子どもなんだ、という・・。

 でも、歌詞と反比例するような強烈なビート、全編に渡って打ち鳴らされるパーカッシヴなサウンドを聴いていると、果たして本当にそうなのだろうか、そんな簡単なものではないのではないか、という気がしてくる。

 実際のところ、世界はそんな単純なものではないし、夢のあるところでもない。それは、歳を取れば取るほど嫌というくらい思い知る。
 力いっぱい走り回っていた子どもたちはやがて力無くうなだれ、絆も薄れ、寂しさはあの頃と比べるべくもない。
 なのに、なぜこんなことを歌うのだろうか。
 だいたい、アトムなんてどこにいるんだ。正義のヒーローなんて、この時代に・・。

 重要なことだが、アトムの物語は、その根底に差別の問題がある。
 アトムは人間ではなくロボットであることから、常に人間以外として扱われ、にもかかわらず人を守るため一途なほどの使命感を持って闘い、その小さな身体にあまりに大きな事柄を背負い込んでいる。
 彼は時々(実は常に)、自分自身の存在意義について悩み、傷つき、それをふりほどき、最後は人類を守るために太陽に体当たりを敢行する。
 それがアトムの物語である。ただ手放しに、夢や純粋さや、明るい未来なんていうことを謳歌している物語ではない。本当は、暗く陰鬱として、物悲しい話である。
 それでもそこに光があるのは、数え切れないくらいの人々が希望を感じるのは、当のアトムが、あまりにストイックな姿勢を持っているからに他ならない。(それと、お茶の水博士に代表される、理解者の存在)
 彼は使命感を持って闘い、自分を差別している他者が確実にいるにも関わらず、分かり合えることを信じ、存在理由に悩みながらも、自分自身の感じる正義に向かって邁進する・・。

 実は、『アトムの子』を聴いて感じるのは、山下達郎はそんなことを歌っているんだ、ということだ。きっと山下達郎は、厳しい現実すべてを包み込んだ上で、それでも「素敵な未来にしようよ」と歌っているのだ。
 彼も、ポップスの世界を闘ってきた人だ。可愛らしい外見のアトムがその内面に様々な葛藤を持っていたように、爽やかで明るいメロディの裏に、相当な決意や覚悟を持って。
 その間きっと彼は、アトムのように、自身の感じる正しさに向かって邁進したのだろう。まさに、どんなに大人になっても。

「みんなで力を合わせて 素敵な未来にしようよ
 どんなに大人になっても ぼくらはアトムの子供さ」

 歌の最後、『アトムの子』という、夢と悲愴な決意がない交ぜになったフレーズが、聴く者全員に届いて、感動的なコーラスと強烈なビートが、まるで未来へ繋がっていくかのように響き渡る。
 ボクらはそれを胸に刻んで、未来を信じて、顔を上げるしかない。


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